自分ではない「誰か」のために一生懸命に生…
【エッジーナの名言】瀬戸内寂聴「たくさん苦しんだほうが、死ぬとき、ああよく生きたと思えるでしょう」
“たくさん苦しんだほうが、死ぬとき、ああよく生きたと思えるでしょう。 逃げていたんじゃあ、貧相な人生しか送れませんわ”
ーー瀬戸内寂聴
“瀬戸内寂聴 「高齢者のエンパワーメント」” by PAインターナショナル is licensed under CC BY 3.0
瀬戸内寂聴(1922-)
小説家、天台宗の尼僧
人間の愛と弱さを書き続けた小説家であり、尼僧として人々の苦しみに寄り添う
不倫関係にあった井上光晴との愛を清算するため仏門に入り、人を愛し許し悩める人々に語り掛ける尼僧・瀬戸内寂聴。
多くの愛と苦しみを乗り越えてきた体験を小説に著し、源氏物語20巻の現代語訳完成など文学界に対する長年の貢献から文化勲章を受章。
家庭を捨て文学と愛に生きる半生
瀬戸内寂聴 (本名 瀬戸内晴美)は、1922年徳島県で仏具店を営む三谷夫妻の二女として生まれました。しかし、徳島高等女学校時代に実父が瀬戸内家と養子縁組をしたため、瀬戸内晴美となり成長します。
成績優秀だった彼女は徳島から上京し、東京女子大学に進学します。
在学中に教職である男性と見合い結婚をし一女をもうけた後、夫の赴任先の中国で生活を始めました。
その後、夫の教え子と不倫関係となり、家族を捨て不倫相手を追って日本に渡りました。
夫とは正式に離婚し、生家からも絶縁されてしまい、親権も夫にとられ娘と別れることになります。
もともと、小説家志望だった彼女は小説家になるために東京に行き「親鸞」「蓮如」の代表作で知られる小説家の丹羽文雄に師事して小説を発表するようになっていきました。
自分の恋愛体験を文学に昇華させていく瀬戸内寂聴
自分の恋愛体験を書いた「花芯」「夏の終り」など、女性と愛をテーマにした小説を多数発表し1963年には女流文学賞を受賞。女流小説家としての地位を確立させます。
文壇での評価は高い瀬戸内寂聴でしたが、男性との不倫関係を隠さず、当時不倫関係にあった井上光晴氏との長年の不倫関係を清算するために天台宗の尼僧となりました。
これは井上光晴氏の娘で小説家・井上荒野氏との対談で本人が語っています。
髪を剃髪し仏門に入る、ここまでしないと愛を断ち切ることはできなかったのでしょう。
尼僧としての社会への関わり、法話や死刑囚との対話を通じ更生を助ける
小説家としての活躍は華々しく、これまでにも数多くの賞を受賞していますが、社会活動家としての一面を持っていることはご存知でしょうか?
反戦活動家でもあり、アメリカ同時多発テロのときには抗議のためハンガーストライキを行いました。
また、麻原彰晃死刑囚など多くの死刑囚とも交流し、更生に尽力しています。最近では、科学者の小保方晴子さんとの対談が話題になりました。
瀬戸内寂聴は批判を受けている人や死刑判決を受けて収監されている人と親交を持ち、面会や文通を通じて彼らを受け入れ寄り添います。
これは彼女の信条の一つである
相手の立場を想像する力、相手の欲することをあたえることが「愛」です。
―瀬戸内寂聴
こんな思いを常に持って人と接しているからではないでしょうか?
瀬戸内寂聴自身も不倫を隠すことなく小説として発表したことで、世間の一部からは批判を受けていることも事実です。
しかし、それは彼女に言わせると
「恋は雷が落ちてくるようなものなの」どうすることもできない
-瀬戸内寂聴
とのこと。自分自身も含め人間の弱さを知り抜く、まっすぐな思いの強さが彼女の魅力です。
「たくさん苦しんだほうが、死ぬとき、ああよく生きたと思えるでしょう。 逃げていたんじゃあ、貧相な人生しか送れませんわ」
自分の思いから逃げずに、苦しみながらも人生を生き抜くことを肯定する、この言葉は人々の胸に響きます。
97歳という高齢になった今でも、法話会には全国から多くの人が集まります。
瀬戸内寂聴の笑顔、そして多くの経験から生まれた愛と許しは、悩める人々を今日も救っているのです。