【エッジーナの名言】 津田梅子「高い志と熱意を多くの人と共感できれば、弱い者でも成功できる」

“高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。”

ーー津田梅子

 

津田梅子(1864-1929) 教育者

 

日本の紙幣が20年ぶりに刷新されます。新五千円札のデザインには、 津田塾大学の創設者として知られる津田梅子が採用されることになりました。

彼女は、女性が教育を受けることさえ困難な時代に、女子教育の向上のための学校づくりに奔走し、女子高等教育の先駆けとなる女子英学塾(現:津田塾大学)を創設しました。まさに女性の新しい生き方を切り拓いた人物と言えるでしょう。

 

結婚か仕事、2択を迫られる日本社会への危機感。「教育」で常識を変えることを決意する

 

梅子は幕臣の津田仙と母・初子の次女として生まれました。江戸幕府崩壊後、北海道開拓使となった父は、開拓使次官の黒田清隆が計画した女子留学生に梅子を応募。わずか6歳で、岩倉使節団の留学生としてアメリカへ行き、11年間単身留学します。そのメンバーには後に内閣総理大臣を務める伊藤博文もいました。

アメリカではワシントン郊外のジョージタウンに住む日本弁務官書記の夫婦に預けられ、現地の学校に通い、キリスト教の洗礼も受けたそうです。

英語を学び1882年に帰国した梅子は、かつて岩倉使節団で一緒だった伊藤博文と再会。伊藤のツテで女学校の英語教師を務めます。しかし、常に結婚か仕事の2択を迫られ良妻賢母であることを求められるなど、女性の社会で活躍することが困難な日本社会に大きなカルチャーショックを受けます。

女性の地位を高めなければ日本の未来はない。

強い危機感を抱いた梅子は、自立した女性を育てるための学校をつくる夢を抱き、再度アメリカへ留学します。

留学先のブリンマー大学では、質の高い少人数教育を受け、その後の梅子の教育観へとつながっていきます。また、在学中から、自分のあとに続く日本女性のための奨学金制度(「日本婦人米国奨学金」委員会)を設立しました。

1892年に再び帰国した梅子は、女学校で教鞭をとるかたわら、デンバーで開催された万国婦人クラブ連合大会への出席、ヘレン・ケラー訪問、ナイチンゲールとの会見など、多方面で女性の新しい生き方に多くの刺激を受けて、日本女性のための高等教育に力を尽くす決意を固めます。

そして1900年、世間の女子教育の関心が高まった所で、父・仙や多くの友人に協力してもらい、ついに女子高等教育の先駆けとなる女子英学塾(現津田塾大学)を創設。我が国の女子教育は大きな一歩を踏み出したのです。

梅子は、身分の関係のない、女子の教育向上に力を注ぎました。これまでの女子教育は、花嫁修行が中心だったため、女子英学塾の評判はたちまち世に広まりました。一方、その厳しい教育に脱落する者も多く、梅子は「鬼教師」と呼ばれるほどだったそうです。

ただ、そこで一生懸命学び、卒業した生徒たちは、今も多くの分野で道を切り拓き、様々な変革を実践しています。彼女が蒔いた小さな種は大きな花を咲かせたのです。

女性の立場が弱く社会進出が困難だった時代に、その常識に打ち勝って女性の新しい生き方を示した津田梅子。高い志と熱意を持って団結すれば、大きなことを成し遂げられるということを、学校という場をつくることで示してみせたのです。