【エッジーナの名言】 ジュディ・ガーランド「ほかの誰かではなく、自分自身の最高を目指せ」

“ほかの誰かではなく

自分自身の最高を目指すべきよ。“

――ジュディ・ガーランド

 

ジュディ・ガーランド(1922-1966)
歌手、女優

 

命を削りながら人々に感動を与え続けた、伝説のミュージカルスター

アメリカが生んだ20世紀最高のエンターテイナーと言われるジュディ・ガーランド。彼女の代表作は「オズの魔法使」や「スタア誕生」「若草の頃」「イースター・パレード」「ニュールンベルグ裁判」など、歴史に残るミュージカル映画の名作ばかり。オズの魔法使で披露した「Over The Rainbow」は今ではスタンダードナンバーとして多くのアーティストによって歌い継がれています。

ジュディは1922年、アメリカのミネソタ州で生まれます。父は舞台芸人、母はピアニストという芸能一家で育った彼女は、コーラスガールの一員として12歳で映画デビューします。当時からずば抜けた歌唱力が観る者を魅了し、以後も数々のミュージカル映画に出演したものの、いずれもその他大勢の小さな役ばかりでした。

そんなジュディに転機をもたらしたのが、1939年のファンタジー・ミュージカル「オズの魔法使」です。この映画は、当初、人気絶頂だった子役のシャーリー・テンプルで企画されていたそうです。しかし、シャーリーが出演不可となったことから、急遽まだ無名だったジュディが大抜擢されました。

この映画が大成功を収めたことで、ジュディは一躍ミュージカル映画の看板スターに。劇中で披露した「Over the Rainbow」は彼女の生涯のテーマソングとなります。

1950年代後半からは活躍の場を舞台に移し、ステージでの熱演は「ミス・ショービジネス」と称されるほど人気を誇りました。その一方、若い頃から厳しいダイエットや過密スケジュールをこなし続けたことで慢性的なストレスを抱えるようになり、なんとジュディは13歳から覚醒剤(アンフェタミン)を常用。さらに睡眠薬(セコナル)も常用し、着実に体は蝕まれていきます。

やがて健康面がおかしくなった彼女は、撮影での遅刻や出勤拒否が目立ちはじめ、精神病院へ入院するようになり、自殺未遂まで起こしてしまったそうです。そして1969年、まだ47歳という若さで睡眠薬の飲み過ぎで不慮の事故死を遂げます。

ジュディと映画監督ビンセント・ミネリとの間に生まれた娘、ライザ・ミネリは、母親はどんな女優だったかと質問された際に、「映画を見てください、説明は不要です」と語りました。その卓越した歌とダンスと演技は、その短すぎる生涯に作られた30本の映画の中に永遠に記録されています

幼い頃から第一線で活躍し、めまぐるしいスピードで人生を駆け抜けたジュディ・ガーランド。彼女は自らの体を削りながらも常に自分自身の最高を追求し続けたことで、ハリウッドで一時代を築き、後世に名を残す伝説のミュージカル・スターとして多くの人々に感動をもたらしたのです。