【エッジーナの名言】宮里藍「『ここで負けても次があるや』って思ってたら、もうそれで終わり」

“人間って楽なほうに行こうとするんですが、『ここで負けても次があるや』って思ってたら、もうそれで終わり”

――宮里藍

宮里藍(1985-)

プロゴルファー

 

日本史上初の高校生プロゴルファーとしてセンセーショナルなデビューを飾った宮里藍さん。国内での活躍はもちろんのこと、アメリカのプロゴルフ界にも進出し、世界ランキング1位に輝くなど日本のプロゴルフの歴史を塗り替え、発展に大きく寄与してきました。

最近では渋野日向子選手が「AIG全英女子オープン」で42年ぶりのメジャー優勝を遂げる快挙を成し遂げましたが、彼女も宮里さんのアメリカでの活躍に大きな刺激を受けた一人。ツアー帰国後の会見でも「宮里さんのような女子ゴルフ界を引っ張っていくような選手になりたい」と語っていました。

 

宮里さんは沖縄県国頭郡東村生まれ。「藍」は、辞書で最初の方に出てくる名前であり、トップがとれるようにと父が名付けたそうです。

父はゴルフのインストラクターであり、宮里さんは4歳の頃からゴルフを始めるようになります。なお、2人の兄、宮里聖志さんと宮里勇作さんも3歳の頃からクラブを握り、後にプロゴルファーとして活躍するようになります。

宮里さんは、小学生の頃からゴルフ大会に出場して腕を磨きはじめます。初出場は小学校2年生の時の沖縄ジュニアゴルフ。小学4年生でジャパンカップ世界ジュニアゴルフ選手権2位、小学5年生で沖縄ジュニアゴルフ大会優勝と、頭角を現し始めると、中学2年生で全国中学ゴルフ選手権に優勝、中学3年生で沖縄で行われているプロのトーナメント、ダイキンオーキッドレディスに初出場するなど、ジュニアゴルフの枠を超えてプロの舞台にも名を知らしめます。

中学卒業後は宮城県の東北高校進学。そこでもアマチュアとして全国高等学校ゴルフ選手権で優勝する一方、プロのトーナメントにも積極的に参戦して結果を残すように。そして迎えた2003年9月、宮城県で行われたミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンでプロのゴルフ大会で初優勝。このニュースは日本中を駆け巡り、一躍時の人となった宮里さんは、その9日後にプロ宣言を行い、史上初の高校生プロゴルファーが誕生したのです。

宮里さんがプロとして大きく飛躍したのは、2年目の2004年のこと。高校を卒業したこの年、彼女はダイキンオーキットレディスをはじめ数ある賞レースで優勝を5回記録。獲得賞金額は1億2千万円を越え、賞金女王レースでは不動裕理選手に次ぐ第2位に躍進。3位の北田瑠衣選手が6千万円弱だったので、如何に上位2人が突出していたのかがわかるかと思います。

翌2005年、女子ワールドカップゴルフの第1回大会が南アフリカで行われ、宮里さんは日本代表として北田選手と組んで出場。見事、初代チャンピオンに輝きます。国内でも快進撃を見せ、日本女子オープンを含む6試合で優勝。この年の賞金女王は間違いなしとされていましたが、アメリカLPGAツアーの最終予選に出場するため最終戦を欠場し、結局賞金ランキングは2位にとどまりました。

しかし、アメリカツーの最終予選は見事1位で通過。2006年から本格的にアメリカツアーに参戦することになります。アメリカ進出後は僅差で優勝を逃すなど、一時期は不調が続きますが、地道な努力をコツコツと重ね続け、2009年にフランスで行われたエビアンマスターズで初優勝。この年は全英オープン3位タイ、全米女子オープン6位タイを記録し、アメリカ女子賞金ランキングでも3位に上昇する飛躍の年となりました。さらに翌年2010年も好調を維持し、開幕から2戦連続優勝、結局年間5勝を挙げ、ワールドランキング1位を11週間続ける快挙を達成したのです。

2017年、多くの人々に惜しまれながら現役引退を発表した宮里さん。翌年に元マネージャーとの入籍を発表し、第二の人生を歩みはじめています。

ゴルフは特にメンタル面がプレーに影響するスポーツだと言われています。宮里さんもそのことを自覚していて、現役時代には「ちょっとでも調子が悪いなと思うと、すぐボールが曲がっていきます」とも語っていました。

だからこそ、常にメンタルをポジティブに保つことが大事。その一方、「次があるから」と楽な方へ気持ちを持っていった瞬間、良いプレーが生まれることは絶対になく、勝負は終わってしまったも同然です。これはゴルフだけでなく、他のことにも通じるのではないでしょうか。弱気にならず、かといって楽な考え方に持っていかない。それが、最高のパフォーマンスを発揮する上で大切なのだと、宮里さんの言葉は教えてくれます。