【エッジーナの名言】 山本容子「世間が失敗だと言っても、私がそう思わなかったら失敗にはならない」

“世間が失敗だと言っても、私がそう思わなかったら失敗にはならない。”

――山本容子

山本容子(1952-)銅版画家

 

山本容子さんは日本を代表する銅版画家。吉本ばなな『TUGUMI』をはじめ、数多くの書籍の装幀・挿画を手がけるほか、アクセサリーや食器、舞台衣装のデザインなど幅広い分野で活躍しています。やわらかく繊細な描線と独特の色使いが特徴で、都会的で洗練された世界観が多くのファンに支持されています。

 

埼玉県浦和市に生まれた山本さんの祖父は寿司職人。大阪で初めて江戸前寿司店「福喜鮨」を開いて成功すると、生駒山中に山本旅館という豪華な旅館も作った人物。山本さんも幼い頃はお嬢様として育ったそうです。

 

しかし、祖父の死後、理系の研究者志望だった父が旅館を売却して研究所を設立するも、人に騙されるなどして倒産。一家は練馬区へ夜逃げします。やがて父は愛人を作って出て行ったため、母はお好み焼き屋を開業して家計を支えました。

 

生活は厳しかったものの、母は「娘に貧しい思いはさせたくない」と娘をお嬢様学校の聖母女学院に進学させます。この進学先で前衛演劇に魅せられたことが転機となり、山本さんは前衛演劇の拠点である京都市立美術大学へと進学。

 

やがて美術そのものの魅力にハマって銅版画の制作を始めると、1975年京展紫賞受賞、1976年第1回アート・コア賞受賞、1977年第2回京都洋画版画美術展新人賞受賞、第2回現代版画コンクール展コンクール賞受賞と、立て続けに賞を重ねます。

 

そして、1978年大学卒業と同時に同大学の非常勤講師に抜擢されると、先輩の田中孝さんと結婚します。公私ともに充実した生活を送っていたように思える山本さんですが、夫よりも名前が売れ始めると、夫婦関係は冷え込んでいき、4年で二人の結婚生活は終止符を打ちました。

 

新進気鋭の画家として飛ぶ鳥を落とす勢いだった彼女の前に続いて現れたのは、美術評論家として名を馳せていた中原佑介さん。20歳以上も年上で既婚者でしたが、惹かれ合った二人は一緒に生活を始めます。公然の不倫関係は評論家とアーティストという立場も相まって世間からの批判を浴び、親からも勘当されてしまいますが、彼女は堂々と幸せな日々を過ごします

 

二人の生活は14年も続きますが、その間も山本さんは銅版画家として飛躍を続けると、徐々に評論家である中原さんとの関係に行き詰まりを感じるようになります。すると、彼女は旅番組で1週間共に過ごしたテレビディレクターの氏家力氏にいきなりプロポーズ。中原さんとの関係を解消して結婚します。

 

7年の結婚生活のあとに再び離婚をした山本さんですが、その後も鉄道博物館のステンドグラス、新宿三丁目駅のステンドグラスとモザイク壁画を制作、近年は医療現場でのアート「ホスピタル・アート」に取り組むなど、今もなお精力的なアート活動を行なっています。

 

山本さんの人生は端から見ると波乱万丈のように思えるかもしれませんが、冒頭の言葉にもあるように、彼女の中には確固たる信念があるのだと思います。

 

自分の人生に責任を持ち、自身で切り拓いていく。それが失敗かどうかは自分で決める代わり、人のせいにもしない。男性にも依存するのではなく、自分にとって必要なタイミングで縁のあった男性と共に支え合い、その時が終わればまた潔く別れていく。

 

世間に振り回されず、自分に正直にあり続ける筋の通った生き方が、彼女をいつまでも美しく輝かせているのではないかと思うのでした。