【エッジーナの名言】 宇野千代「尽くすという行為は、自分がしたいから、していることなのである」

“「尽くす」という行為は相手のためにしているように思える。しかし、よく考えると、それは、自分がしたいから、していることなのである”

ーー宇野千代

宇野千代(1897-1996)

小説家、着物デザイナー、実業家

常識にとらわれず、仕事も恋愛も自由に謳歌したエッジーナ

宇野千代さんは大正〜昭和にかけて活躍した小説家。代表作の『おはん』はテレビドラマ化、映画化、舞台化され、海外でも多くの人々に読まれている日本を代表する小説の一つとなっています。作家として、また着物を手がける実業家として活躍する傍ら、多くの著名人との恋愛遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれています。

宇野さんは山口県の酒造業を営む裕福な家で育ちます。幼少期に母がいなくなると、自分と12歳しか違わない若い娘と父は再婚。この年の近い継母を宇野さんは実の母のように大変慕っていたそうです。ちなみに、この方が『おはん』のモデルとされています。

岩国高等女学校在学中、従兄の藤村亮一と結婚させられますが、好きではなかったのですぐに離婚。小学校の代用教員をしたあと朝鮮へ渡り、帰国後に亮一の忠と結婚します。この時期、本郷三丁目にある文士が集う西洋料理店「燕楽軒(えんらくけん)」でアルバイトをしたことで、芥川龍之介や久米正雄、今東光と知り合います。こうした文士たちから刺激を受けたことが結果的に宇野さんの人生を変える転機となりました

その後、夫の仕事の都合で北海道へと移りますが、1921年に『時事新報』の懸賞短編小説に投稿した『脂粉の顔』が一位入賞し、作家としてデビューします。

多額の賞金をもらえたことで、執筆活動に専念することを決意。第二作となる『墓を暴く』を中央公論に送りますが、いっこうに返事がないことにしびれを切らして上京。その際に中央公論の本社で懸賞小説の第二位だった尾崎士郎を紹介されたときに宇野さんは一目惚れし、そのまま同棲を開始。しばらくして、藤村と別れて尾崎と結婚します。

1930年には尾崎とも別れ、画家の東郷青児と同棲をスタート。この時に書いた代表作の一つ『色ざんげ』は、愛人と心中未遂事件を起こしたこともある東郷の女性遍歴を聞いて書いたものだと言われています。

1936年にファッション雑誌『スタイル』を創刊。表紙絵は藤田嗣治、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めます。戦時中にいったん廃刊するものの、1946年に再び刊行し、大きな成功を納めます。また、彼女は着物のデザインも始め、その売れ行きも好調でした。

私生活では共同編集者の北原と恋仲になり、東郷と離婚して北原と結婚。なお、その北原とも1964年、67歳の時に離婚しています。

宇野さんは晩年に到るまで旺盛な活動を続け、74歳から連載をスタートした『桜』もヒット、85歳から連載した『生きて行く私』はベストセラーとなります。作家としてだけでなく、着物のデザインでも手腕を発揮し、「株式会社宇野千代」を設立するまでに発展。女性実業家の先駆者としても評価されています。

また、彼女は結婚と離婚を繰り返し、生涯にわたって世間の常識に縛られない自由な恋愛を貫き通したことでも知られています。端から見れば起伏の多い一生でしたが、本人はいたって前向きでしなやかに、時にユーモラスに人生を謳歌していました。「自分がしたいから、していること」。彼女が残した生き様や言葉の数々は、今に生きる女性を励まし続けています。