“私はいつも一番頭が良くて面白い人たちと…
【エッジーナの名言】 キャロル・キング「自分が望んだことは全てやったわ」
“私は自分が望んだことは全てやったわ”
――キャロル・キング
“Carole King-legendary songwriter” by protestphotos1 is licensed under CC BY 2.0
キャロル・キング(1942-)
歌手・シンガーソングライター
大挫折を経験。音楽に全身全霊を捧げて復活したエッジーナ
キャロル・キングはニューヨークのブルックリン出身の女性シンガーソングライター。
1971年発表の『Tapestry』が全米アルバムチャートで15週連続1位、302週連続でトップ100に留まるロングセラーとなり、グラミー賞で4部門制覇。1990年にはロックの殿堂入りも果たした、アメリカを代表する女性シンガーです。
ニューヨークのブルックリンに生まれたキャロルは、幼いころからピアノを通じで音楽に親しみ、やがて自分で作曲を行うようになります。
高校時代には優れた音楽センスとカリスマ性を発揮し、すでに周りからの注目を集めていました。
クイーンズ大学生に進学した彼女は、同級生で既にレコードデビューしていたポール・サイモンからデモ・テープの作り方を教わり、自作のデモ・テープをレコード会社に売り込みます。
そして1958年、16歳の時にABCパラマウント・レコードからシングル・デビュー。
しかし、デビューから通算4枚続けて出したシングルはどれも不発。大きな挫折を味わったキャロルは、いったん音楽家としてのキャリアを諦めるのです。
作曲家として音楽の世界へカムバック。全米屈指のヒットメーカーに
その後、大学の同級生で作詞家のジェリー・ゴフィンと結婚し、子どもを出産したキャロルですが、音楽への情熱は途絶えることがなく、夫と一緒に作曲活動をスタート。
ガールズ・グループのシレルズに書いた「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ」が全米No.1の大ヒット作となると、さらに「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」「ワン・ファイン・デイ」「アップ・オン・ザ・ルーフ」など、数々の名作を生み出しました。
1960年から1963年にかけての3年間で、2人は延べ20曲あまりの全米トップ40ヒットを世に送り出しています。
公私を共にしたパートナーと別れ、自分が信じる音楽の道を突き進む
彼女自身も、シンガーソングライターとして1962年に「イット・マイト・アズ・ウェル・レイン・アンティル・セプテンバー」により全米チャート22位、全英シングルチャート3位を記録しますが、その勢いは長く続かず、仕事上の不和が夫婦生活にも影響し、1968年にゴフィンと離婚しました。
キャロルは離婚後も精力的に音楽活動を続け、1968年、ダニー・コーチマー、チャールズ・ラーキーらとザ・シティというグループを結成しアルバム『夢語り』を発表。
そして、1970年代に入ってからは、再びシンガー・ソングライターとしての活動に本腰を入れ、1970年にアルバム『ライター』を発表します。
大きな転機となったのは、その翌年1971年のこと。ソロ・アルバム『Tapestry』が全米アルバムチャートで15週連続1位、302週連続でトップ100に留まるロングセラーとなり、グラミー賞でも4部門制覇を成し遂げます。
さらに、先行シングル「イッツ・トゥー・レイト」は、全米シングルチャートで5週連続1位、年間チャートでは第3位を記録。この作品によって、彼女は全米を代表する女性シンガーへと上り詰めたのでした。
ロックの殿堂入り。そして、引退へ
その後も、アルバム『ミュージック』『喜びにつつまれて』、シングル「ジャズマン」など、順調にヒットを連発し、1970年代前半から中期を代表するヒットメーカーの一人となり、2つの年代に渡って天下を取ったキャロル。
1990年には初の来日公演が実現し、ジェリー・ゴフィンと連名でロックの殿堂入りを果たします。
2013年2月には、長年の音楽界の功績によりグラミー賞の功労賞を受賞。同年3月には女性作曲家として初のガーシュウィン賞受賞者にもなります。
冒頭の言葉は、2012年にAP通信の取材に対して引退を示唆するコメントを発表した時のもの。
大きな挫折を味わいながらも自身の望む道を全うし続け、音楽史に残る功績を残したキャロル。いつか人生を振り返る時、彼女のように悔いのない気持ちになりたいと、そう思わせてくれる名言だと思います。